結論を最初に書いておきます。
寛延二年、百姓の怒りは、爆発しました。世に言う「寛延・播磨全藩一揆」です。この一揆の首謀者の一人は、野谷新村の「伊左衛門」でした。
伊左衛門は刑場に消えました。
ブログでは、伊左衛門を取り上げたいのですが、今日は、伊左衛の生きた、当時の姫路藩のようすをみておきます。
姫路藩は火の車
徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。
その時、白河藩では、「借金を踏み倒すな」と、ひと騒が起こっています。屋台骨はゆらいでいました。
姫路藩への国替えは、その苦境を救うため発令されたようなものでした。
白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。
姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路への入部となりました。
明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができました。
そのため、姫路藩入部早々に、まず年貢の増税にとりかかりました。
そのやり口はひどいものでした。
大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。
さらに、参勤交代や、朝鮮使節の接待費などが重なりました。
特に、朝鮮使節の接待費用二万両を町人・農民に負担させました。
悪いことは重なるもので、この年、猛烈な台風が襲ったのです。
そして、寛延元年(1748)11月、明矩は急死しました。
嫡子は、10才とまだ幼い。
翌年、早々には転封のことが予告されたのです。
この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。
藩主の死により、政治に空白ができました。
寛延元年もくれようとする12月21日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせたのです。
この時は、百姓の怒りは燃え上がらずにおわりました。
しかし、翌年早々のことでした・・・