稲美町探訪(26):伊左衛門物語C・野谷新村から全藩一揆へ

15日(寛延21749)、伊左衛門は、村人を集めて連判状をつくりました。

平九郎宅の襲撃については『稲美町史』に詳細な記述があるのでお借りします。

    平九郎宅、襲撃!

203842b7 正月16日七ツ時(午前4時)に、まず石の宝殿の張り紙を見た印南郡・加古郡より多数が上西条の平九郎宅へおしかけました。

印南郡の方では、途中都染(現:上荘町都染)の大庄屋宅で炊き出しをさせ、腹ごしらえをして平九郎宅へ進みました。

加古新村、野寺村では、早鐘をついて騒動となり、野谷新村でも太鼓をうち、めいめい鳶口・熊手などを持ち、東の方から上西条へ押し寄せました。

まず、大門を押し倒し居宅に乱入したのです。

平九郎の弟・忠蔵が抜刀して抵抗したため、まず忠蔵宅を打ち砕き、続いて平九郎宅を打ち壊しました。

伊左衛門の息子の藤四郎も熊手を持って一揆に加わり、平九郎の牛小屋をくずしていた時、倒れてきた壁の下敷きになってしまいました。

それでも何とか午後8時ごろ戻ってきて、大庄屋宅が打ちつぶされたことを報告すると、伊左衛門はその様子を見に行き、打ちこわしが終わり、かがり火をたいて百姓があたっているのを見て引き返しました。

伊左衛門は平九郎宅の打ちこわしには、直接加っていません。

この平九郎宅打ちこわしでは中心になったのは、石の宝殿の張り紙を見た印南郡・加古郡の村々の百姓たちでした。

   姫路全藩一揆の引き金に・・・

平九郎宅打ちこわしの噂は、たちまちのうちに姫路藩の他の村々へ広がりました。

各地で百姓は立ち上がりました。

やがて、江戸時代、姫路藩最大の一揆へと燃えあがりました。

姫路藩のどの村々でも、百姓の怒りは、頂点に達していたのです。

結果的に、野谷新村の伊左衛の起こした行動は、燃え上がる姫路藩全般一揆の火をつける役割となりました。

姫路藩の寛延の大一揆については、多くの書籍に紹介されていますので、それらをご覧ください。