播磨西国三十三ヵ寺巡礼
西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。
人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音巡礼にでかけました。
第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。
江戸時代になり治安もよくなり、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
野寺山高薗寺
しかし、誰でも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。
生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものでした。
そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所巡礼」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所巡礼」です。
このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。
播磨西国にとして、高薗寺の外に近辺では次の寺々が選ばれています。
二見町東二見観音寺(二十七番)、平岡町新在家横蔵寺(二十九番)、尾上町池田観音寺(二十八番)、高砂市曾根町の圓通寺(三十番)、番外として神野町神野常光寺等です。
*写真:十一面千手観世音菩薩(高薗寺観音堂本尊・鎌倉時代の作といわれる)