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加古大池

これから皆さんの地域の宝もの「加古大池」の成り立ちについて少しお話しましょう。

加古大池の歴史は新田開発とともに始まります。作られたのは江戸時代の初期、1660年と言われています。
人間の年にたとえてみると言わば300歳を超える池と言うことになります。 地元には、ため池や水路をつくり、新しい田畑を切り開いた当時の歴史が伝えられています。

沼田家に伝えられる文書によると西暦1661年に中西条村の加古沢兵衛、沼田喜平次、本岡次兵衛が姫路藩に願い出て、 この土地の新田開発の農業用ため池として築造されました。
加古大池の工事に当たった人夫の数は10,217人、その日当として一人一日米7合5勺が与えられました。

こうして出来上がったのが大池・北池・跡池・中池・五軒家池・宮山池の6つの池、そうして延長2,500間にわたる溝(水路)が完成したのです。

水源は、はじめ母里村と隣接するむめのき(今の練部屋)の吉よし生い邑むろの井戸に求めました。
そうして400間溝をつくり、そこから水を引いたのです。
しかし、その後、水が足りなくなると草谷川より引水するようになりました。

この地域は草谷川との高低差が少ないが故に約3キロメートルにも及ぶ 「加古大溝」と呼ばれる用水路が作られることになります。

そこで、延宝8年(1680)、草谷川を水源とする画期的な計画が立てられ、 草谷川下流の八ヵ郷へ非灌漑期に草谷川から取水することを願い出ました。

協議では「田畑にあまり水を使わない7月から翌年4月までの期間に加古大池や 入ヶ池に水を貯蔵しておくことができる」との了解を得ることができました。

その後、昭和24年に池の大改修が行われ5つのため池が統合されて現在の形になりました。
現在は「どんどダム」から淡山疎水を通った水が加古大池に注ぎ、私達の地域の田畑を潤しているのです。

現在の加古大池は満水面積49ヘクタール。何とこれは甲子園球場が12個すっぽり入る大きさなんですね。
兵庫県には約44,000個のため池がありますが、その中でも加古大池の大きさはだんとつ「県下一」なんですね。

加古大池マップ

平成13年には防災ダム事業が行われ、併せて1周3キロメートルの遊歩道・親水護岸・管理棟など 水辺に親しめる施設が整備され、カヌー,ウインドサーフィン,ウォーキングなど多くの人々に愛され活用されています。

ウインドサーフィン

(写真は稲美町の残したい風景 投稿写真)

ヤドリギ

(ヤドリギ/加古大池)

それと昨年は神戸新聞・今年は朝日新聞に紹介されましたが、平地の植物には珍しいヤドリギが生えています。
万葉集にも「ほよ」という名前で登場します。常緑でほかの木々が葉を落とす冬に金色の実をつける生命力のたくましさからでしょうか。

日本に限らず西欧でも神木として、クリスマスに飾られます。
富山県高岡市の万葉歴史館のお正月の門松にも松竹梅と共に飾られるたいへんおめでたい木です。

万葉集を編さんした大伴家持が詠んでいます。
「あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて かざしつらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ」

大伴家持(巻18-4136)

歌意

(山の木の梢のやどりぎ(ほよ)を取って髪にさしたのは千年の命を祝り、祝うからである。)

加古大池の水辺をのぞむ木に宿る「ほよ」、それはまさしく加古大池の神木であり、水の故郷・いなみ野を守る聖木と言えましょう。

先程、練部屋を「むめのき」と言いましたが正しくは「埋めて退く」と漢字で書き、「うめのき」というのが本来の読み方です。

明石藩と姫路藩が、互いの領地を侵すことのないようにその境界域に塚を埋め、しるしとしたのです。

このしるしを「うめのき」と言い、それがなまって「むめのき」になり、かつて練部屋の呼び名となっていたのです。
村名の語源やゆかりを考えてみるのもおもしろいですね。

参考資料:ひょうごのため池誌
加古大池土地改良区 ・ 稲美町郷土資料館
編集 大路 敬子