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国史跡 播州葡萄園跡

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播州葡萄園

日本のブドウ栽培のルーツが印南(加古郡稲美町印南)にあったことは、稲美町以外では意外と知られていないようです。

播磨葡萄園は、120年前に廃園になり、地元でも忘れられていました。
10年ほど前にその遺構が見つかり、その一部の発掘調査が行われました。
平成17年に国の史跡指定が決まり、播州葡萄園が再浮上してきました。

官営、播磨葡萄園

明治12年、政府は官営の葡萄工場を計画しました。
地元ではさっそく誘致に動き、翌13年2月、政府は約30ヘクタールを買収し、3月、園長・福羽が着任し播州葡萄園はスタートしました。

この間の裏話は「稲美町探訪54・55」で見たとおりです。壮絶な歴史でした。

明治16年度には11万本の苗木の植えつけも終わり、ワイン・ブランデーづくりもはじまり、約20平方メートルのガラス温室がお目みえするのもこの頃です。

明治17年には、松方正義大蔵卿(後、総理大臣)、西郷従道(さいごうつぐみち)農商務長官が葡萄園を視察しました。
官営の播磨葡萄園の開設により政府の要人がしばしば印南新村を訪れるようになり、 当地の事情が、直接中央でも知られるようになり、疎水の必要性も認められるようになりました。

明治19年、園長の福羽逸人(ふくばはやと)は、ドイツ・フランスへ留学を命じられました。
代わって経営にあたったのは、農商務省の前田正名(まえだまさな)です。

*前田正名は、多木粂次郎にも大きな影響を与えた人物です。

そして、事情は良く分からないのですが、明治21年、前田正名に払い下げられています。

ですから、葡萄園が官営工場であったのは10年ばかりでしたが、この間に岡山県の名産と なっている「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の温室栽培への技術移転でした。

葡萄の天敵・ブドウフィロキセラ被害広がる

明治18年6月、葡萄の天敵であるブドウフィロキセラがみつかりました。

前田の経営にうつって後、フィロキセラ大繁殖により、葡萄の木は衰弱して、明治20年代の後半、播州葡萄園は、閉園となりました。

ブドウ酒の古瓶

*写真上:発掘されたブドウ酒(中身もはいっている)・写真下:葡萄園発掘現場

葡萄園発掘現場

『播州葡萄園・発掘調査報告書』より

国史跡播州葡萄園跡 360.35平方メートルを追加指定

文部科学省は平成19(2007)年7月26日付の官報告示にて、国史跡播州葡萄園跡の未指定地の一部、 360.35平方メートルを国史跡に追加指定しました。これにより史跡の全体面積は51778.43平方メートルになります。

発見された土地は、平成8年7月に実施された印南地区圃場整備(ほじょうせいび)工事で、 礫敷(れきじ)き暗渠(あんきょ)排水溝が発見されたところです(下図・写真参照)。

葡萄園跡位置図

発見当時は播州葡萄園に関連する遺構かどうか判断がつきませんでしたが、 その後の発掘調査によってワイン醸造場跡と関係する遺構である可能性が高いことがわかりました。
平成18(2006)年12月、この土地の地権者から指定同意が得られ、追加指定に至りました。

昭和53年2月、この池の改修の際、南堤中樋の付近より発見された敷石のことである。
分切石に刻まれた文字は 「享保七寅年 御願申 忌 之 分 切」とある。
これは、「御願い申す。これを忌みたまえ 分切」と読むのかと思われる。
分切石が押し流されぬよう水神に至祈る意見で書かれたのであろうと言われる。

礫敷き暗渠

平成8(1996)年に見つかった礫敷(れきじ)き暗渠(あんきょ)排水溝の一部(南から)