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天満大池
はじめに
稲美町のため池は89個、圃場整備以前は約140個あったといわれています。
少なくなったとはいえ、町面積の12パーセントをため池が占めるというからすごいですね。
まさに水辺王国、稲美町です。
その中で最も古いのが天満大池で、約1300年前の築造とされています。
内陸性の気候で雨の少ない東播磨の地域、古くからいなみ野といわれたこの地域の人々が昔からいかに水不足と戦ってきたのかがよくわかります。
天満大池は農作物の水を灌漑する池としてだけではなく、絶滅危惧種「アサザ」の花の咲く池として伝説の池として、
また神事を司る池として昔から人々の暮らしと深く関わってきたのです。
農業生産、文化の拠点の一つとして重要な役割を担ってきた天満大池です。
天満大池(所在地:兵庫県加古郡稲美町六分一1179-1)
【歴史】
天満大池は兵庫県でもっとも古い池で、国安天満神社の古文書によりますとその原型は白鳳3年、西暦675年の築造と言われ、 そのころは「岡大池」と呼ばれていました。
また、六分一水利委員会所蔵の江戸時代に描かれた絵図面(1666年)によりますと、「蛸草大池」と呼ばれ、 水争いが絶えず、池は「命の水」となっていました。
天満大池がいつ頃からこの名称で呼ばれるようになったのかについては、歴史的記述や口伝が残っておりませんので、 明かではございませんが、蛸草郷六ヵ村が明治21年4月に合併し、天満村となったとき、村の地名をとって天満大池と 呼ばれるようになったのであろうと言われています。
近年、昭和20年の阿久根台風では長法池から天満大池中堤、河原山池が決壊し、国道2号線と交差する国鉄陸橋に漂流分がたまり、 土山本村が浸水する災害がおき、昭和60年~平成9年の改修工事、平成9年~15年のパイプライン工事で現在の池の形になりました。
なお、蛸草郷というのは、岡、六分一、森安、国安、中村、北山の六ヵ村のことでございます。
【特徴】
現在の天満大池は、総貯水量47万6千トン、満水面積34.6ヘクタール、灌漑面積193.5ヘクタールとなっており、 加古大池に次ぐ、県下第2位の面積を誇っています。
池の東側には昭和59年から整備した2.4ヘクタールの大池公園があり、地域住民の憩いの場となっています。
また毎年10月に開かれる天満神社の祭りでは、五穀豊穣を祝い、池に御輿を投げ入れると言う神事が行われることで有名です。
さらに、万葉の歌で詠まれたアサザの自生池で、天満大池土地改良区、協議会、ため池協議会、 アサザを育む会を中心とした保全活動が行われています。
万葉集ゆかりの地の天満の池に万葉に詠まれた絶滅危惧万葉植物アサザが生えることに不思議な縁を感じます。
【天満大池に注ぐ水】
天満大池には神出の天王山から八重・枯川(手中流)・柿沢流から喜瀬川へと流れ込んでいます。
昭和40年代からの県の河川改修工事で二級河川となり喜瀬川と呼ばれるようになりました。
喜瀬川の水は天満大池の砂溜池としてつくられた新仏池を満流して、天満大池へと注いでいます。
一方、手中流は明石郡雄岡山の水を集めて、岡地区を流れ天満大池へと注いでいます。
ここで、手中流について水のあれこれの話をしましょう。
手中流の水は田畑を潤す水、人々の暮らしを支える水、命を育む水として、蛸草郷の人々にとってまさに命の水でございました。
それだけに、古くから水争いが絶えず起こっています。
元和元年(1621年)蛸草郷と神出郷との間に藩を超えた争いが起こりますがそれもその一つです。
明石領側が神出の手中池に堤を築いたのです。
これに対して蛸草郷側は、堤を築かれては蛸草郷に水が流れて来ないので困ると明石藩に訴え出て、 それが認められ、手中切池と呼ばれるようになりました。
この紛争がわりあい容易におさまったのは二つの藩の領主が義理の父子関係であったことが幸いしたと言われています。
ため池の名前の由来や語源を見ると当時の人々の水不足に対する深刻な悩みがひしひしと伝わってきます。
又、この後に誕生する印南新村と蛸草郷との間に水争いが起こっています。
神出と蛸草郷との間に印南新村が誕生したのです。印南新村は高台にあるため、きわめて水が乏しく、
ため池によって水不足を解消しようとしましたが、それは下流の蛸草郷の人たちにとっては重大な問題でした。
この二つの村の間には元文2年(1737年)以降何回となく紛争が起き、ときには実力行使も伴う、極めて深刻なものでした。
蛸草郷の人々が神出から印南新村を経て流れて来る手中流に水を求める限り、二つの村の水争いは不可避だったのです。
やがて、野寺、蛸草新村の人々が中心となって淡河川から水を引く疎水事業で御坂サイフォンが作られることになります。
まさに人々は水不足という大きな苦難をバネとして疎水事業の原動力に変えたのです。
この事業は初代加古郡長の北条直正や魚住完治、魚住逸治、丸尾茂平治、村長の岩本須三郎らが中心になって進められました。
淡河川疎水は後にできた山田川疎水と合流して今、天満大池へ注いでいます。
美しい水の華は先人の労苦の形で、青くクリスタルな水の輝きは先人の汗の輝きなのです。
【天満大池・天満神社にまつわる伝説】
その1
明徳元年(1390年)正月のこと、天満大池によなよな不気味に光る雑魚怪魚が平らになって浮かんだ。
人々は気味悪く思ったがその原因がなぜかわからぬ。
そこに旅の律僧が通りかかったのでたずねてみると、僧曰く、「池に弁財天はあるか」
「いいえ、ございません」村長が答えると、律僧が答えて曰く、「このような大池にはきっと竜が住んでいるはずだ。」
村人達は急いで島を築き、弁財天を祀った。すると、その怪しい災いはぴたりとやんだ。
こうして神社にも左の相殿として弁財天が祀られることになったと言う。
その2
正親町天皇の天正八年(1580年)の頃、豊臣秀吉が三木の別所氏を攻めたとき、播州一円の城砦や寺社を打ち壊し回り、
この天満神社社殿をも取りつぶしにかかった。
すると社殿の傍らの神木から社殿の上へ大蛇が顔を出してきた。秀吉がこれをみて「捨て置け、捨て置け」 と二言いったので社殿は取りつぶしを免れたという。
現在、本殿の裏側塀に近く数本の杉の巨木のすでに枯れて根本から3メートルばかりになったのが残っている。 これがその大蛇のいた神木であろうと言われる。
天満大池に関連した詩
天満神社境内にある菅原道真公の歌碑
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
<歌意>
春になり東風が吹いたら、その風にのせて花の香りを私が流されてゆく。
西の太宰府まで送ってほしい、梅の花よ。主がいないからといって春を忘れてはならぬぞ。
【天満大池の植物】
アサザ、スミレ、ヨシ、ガマ、オギ、ヒシ、ゴキヅルなど。
又、池の富栄養化抑止に県農生と土地改良区とでクウシンサイ等を水耕栽培しています。
アサザの苗を持つ児童 | アサザの移植 |
【休耕田の利用】 町花のコスモスが植えられている |
いなみ野を詠んだ歌一首
いなみ野は良き里 人良し花も良し コスモスの花にいこう休み田
<歌意>
いなみ野は本当に良いところだ。住んでいる人も良い人ばかり、それに花も美しい。
休み田のコスモスの中に座すと、私までが花と化してしまう。
花かんざしで覆われたような休み田。あまやかな匂いに包まれていると天国にいるのだと思う。
天国とはあの世ではなくこの世の中にあるのだと思えてくる。
秋陽を謳歌するコスモスがしなやかに風に揺れながら私を抱いてくれる。
六十路を過ぎた老いの背なを抱いてくれる。
天満大池を詠んだ歌一首
大池のほとりに酒を酌み交わし グラスにうつる池を飲み干す
<歌意>
天満大池のほとりに友と座し酒を酌み交わす。
透明なグラスは光を返しつつ大池を映す。
酒を飲み干せば池を飲み込んだような気分になることだよ。
【天満神社の運営の変遷】
神仏混合の頃、明治初年まで天満神社の社寺一切は、境内の地近くにあった円光寺によって取り仕切られていました。
しかし、明治5年、神仏分離令が出され、円光寺は現在の中村に移り、神社の催事、運営は神官の手にゆだねられるようになったのでございます。
天満神社の宮司は、藤田仟麿(ゆきまろ)さんです。
【天満大池の「アサザ」の発見】
アサザは昭和30年代まで池中にたくさん自生していましたが、環境の変化により消滅に近い状態です。
アサザは日本の絶滅危惧種でミツガシワ科の浮葉植物であり、水性の水草です。
我が国で自生するのは茨城県の霞ヶ浦や兵庫県の淡路島、そして、加古郡稲美町の天満大池と限られています。
アサザを発見したのは平成8年の夏でした。
アサザは親水公園事業で天満大池から姿を消してしまったと言われていました。
(1996年発行のレッドデーター兵庫の野生植物による)
アサザを探し始めたのは平成5年から稲美町の広報で当時 「いなみ野万葉の森の会長であった中嶋信太郎先生が「アサザは天満大池に十年ほど前には自生していたそうですが今は見かけません。 どなたか知っている人はいませんか?」というアサザの情報提供を呼びかけられたのです。
それがアサザ探しのきっかけでした。
中嶋先生や万葉の森を訪問する人に喜んで欲しい一心の気持ちでした。
稲美町だけでなく、加古川、小野、加西、福崎の池も巡りました。
おかげで、フサタヌキモ・コウホネ・ヒメコウホネ・ガガブタ・トチカガミ・スブタ
・ヤナギスブタ・マルバオモダカ・ミクリ・ヒメミクリ・ナガエノミクリ・アギナシ・
ウキシバ・オニバス・オニスゲ・フジバカマ・ホシクサ・タコノアシ・ミズニラ・
ゴキツル・サデクサ・ヌカボタデ・コシンジュガヤ・ナガボノワレモコウ・
ミカズキグサ・サギソウ・ムラサキミミカキグサ・ミズトンボ・サンショウモ・
ユウスゲ・ノハナショウブ・コガマ・イヌハギ・イヌセンブリ・アゼオトギリ・ヒキヨモギなど水生植物のみならず、
多くの湿地の絶滅危惧種に出会うことが出来ました。
これらの「愛しい、水辺の宝物」と血の通うふれあいを持つことが出来るようになったこと、 「自然と共生の心」が私の体に育めたこと、これひとえに「アサザ」のおかげです。
アサザ探しを始めて4年目の夏、一枚の深いハート形の葉が天満大池の岸辺近くに漂っていたのでした。
手を伸ばし、拾い上げてみるとゆるやかな波形の葉があります。
早速、水辺の里公園の先生に知らせ、フィールドスコープを持ってきてもらい、それに脚をつけ大池の岸辺に固定しました。
レンズを通すと群落がはっきりと見えました。池の水が少なくなったせいでしょうか、ループ状になって水面に突き出た葉柄も見えます。
可愛いつぼみを付けているものもあります。
「明日の朝11時にもう一度フィールドスコープを持ってきてください。つぼみが黄色い花を咲かせたらアサザに間違いありません。」
次の日、天満大池の北池に行くと伊藤先生と稲岡先生がもう来ておられました。
そうしてフィールドスコープをのぞき、言われたのです。
「大路さん、黄色い花が咲いているよ。」私は悲しくもないのに涙があふれ出てきました。
「先生、涙というのは悲しいときだけに出るのではないのですね。嬉しいときにも出るのですね。」
フィールドスコープの中に金色の星のような花、アサザがかすみました。
それから、神戸新聞社の玉置記者さんに電話をしました。アサザの記事は平成8年8月2日の朝刊に載ったのです。
記事のタイトルは「改修の池にアサザが戻った」です。神戸新聞社の東播総局(長尾デスク)が企画されたシリーズ「ため池を歩く」
変わる自然の宝庫の6回目でした。
そして、その記事が水辺のネットワークの目にとまり、地域の人々や行政が一体化してアサザの保全が始まったのです。
天満大池公園化事業の浚渫で姿を消した後、大規模ため池工事をしましたが、幸いなことに北池に残っていたのです。
今、アサザは稲美町や東播磨地域だけでなく兵庫県の水辺のシンボルフラワーとなっています。
日本の古典「万葉集」にも詠まれた水の女神というべきアサザの花、絶滅危惧種「アサザ」を守ることは 美しい水辺環境を守ることであるのです。アサザを軸にして人々が互いに温かい心を通わせ、ふれあいという 「心の花」をも同時に咲かせる花でもあるのです。
アサザは地域の宝物なのです。
【アサザQ&A】
Q1、アサザが天満大池から絶滅したと思われていた理由?
A、全県公園化事業の浚渫で姿を消してしまいました。
Q2、アサザを発見した場所は?
A、天満大池の北池です。
浚渫をまぬがれた場所に古代の種が生きていました。
Q3,アサザの咲く時間は?
A、5月下旬から7月頃にかけては午前中、9月から10月頃は太陽の光が柔らかいので終日咲いています。
Q4、万葉名あざさ?
A、万葉名の「あざさ」は古語の「あざう」という言葉から来ています。
アサザはしなやかで長い茎、葉柄を持つ水草で水面下にそれを伸ばしています。
古語の「あざう」はもつれる、からまるという意味をもつ言葉なのです。
Q5,アサザが万葉の恋歌に詠まれた理由は?
A、愛し合う男女がアサザの茎葉のように体を寄せ合い、もつれ合い、絡まり契りあう。永遠の愛の契りなのです。
万葉に詠まれた親子の問答歌は「終わりなき愛の賛歌・エンドレスラブ」として今も私たちの胸に奏でています。
あざさ(アザサ)万葉歌・・・作者不詳
うち日さつ 三宅の原ゆ 直土に 足踏み貫き 夏草を腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑそ 通はすも吾子
諾な諾な 母は知らじ 諾な諾な 父は知らじ 蜷の腸か黒き髪に 真木綿以ち
あざさ結ひ垂れ 大和の黄楊の小櫛を 抑へ挿す うらぐはし児 それそわが妻
<歌意>
日が輝く宮、三宅の原を通り、じかに土を足で踏みつけて、夏草に腰を没しては苦しみつつ、
さあどのような、人の子のためか、お通いになるよ、吾子は。もっともです。お母さんは知らないでしょう。
そのとおりです。お父さんは知らないでしょう。
蜷貝の腸のように真っ黒な髪に美しい木綿をもってあざさを結び垂らし、大和の黄楊の小櫛を抑え挿している、かわいい乙女、それこそ私の妻です。