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入ヶ池
はじめに
稲美町はため池王国、主要産業である稲作りにとって水は欠かせません。
稲作の灌漑用水のため池づくりには多くの苦難の歴史があります。
それは入ヶ池の伝説によってもうかがい知ることができます。
稲美町の次代、未来を担う子ども達に歴史的資産としても守っていかねばならないため池の保全、
先人達の偉業を伝えるために紙芝居のような語り調で書いてみました。
また、ため池やそれに関係する碑やお入さんをおまつりする薬師堂・水辺の草花などを紹介して紙面を通して
ため池の歴史探訪や散策も出来るようにしてあります。
お使い頂ければ幸いです。
【入ヶ池伝説】
むかしむかし、今からおよそ1300年も前のこと、大和の国の人、藤原弥吉四郎が、西国の仕事に行く途中、老人にであいました。
「この野を拓けば末代まで繁盛するであろう」と告げられ、一族と共に今の稲美町に来て住むことになりました。
早速、人々は木を切り、草を刈って、土を掘り起こし、田畑を作りました。
お告げのとおり良い土地で米もとれました。
ある年の夏のことです。
大変日照りが続いたのでため池を築くことにしました。しかし、大雨が降って、池の土手が壊れてしまいました。
再び池を作ろうとしましたが、不思議なことに、今度は雨も降らないのに水があふれ出て、土手が崩れ、どうしてもできあがりません。
村人はとうとう工事を諦めてしまいました。
しばらくして、弥吉四郎の孫の光太衛が夢をみました。
夢に現れたのは、立派なお坊さんで、「お前のおじいさんは、この地になんども池を築いてきたが出来なかった。
まず、堤が切れないようにするには六枚の屏風の形に築きなさい。次に池をつくっているところに、美しい女の人が通るから、
それを捕らえて人柱にすれば、池はできあがるだろう」と言いました。
光太衛は目が覚めると、村人を集めて夢のお告げを話しました。村人は大変喜びました。
そして、再び池づくりを始めました。池を作り始めてまもなく、夢のお告げどおりの美しい女の人が通りかかりました。
村人はその人をただちに捕らえ切り伏せて人柱にしてしまいました。
お告げのとおりにしたせいでしょうか、池は立派に出来上がり、どんな大雨にもびくともしません。
村人はこれで日照りの時も稲が作れると大変喜びました。
人柱の女の人の名前は「入」と言ったので、その名前から入ヶ池と呼びました。
しかし、いつしかそのことは村人から忘れられていきました。
ある日、村の若者が入ヶ池をまわって帰る途中、「ちょっとお待ち下さい」と呼び止められました。
すると、身の丈、六尺(1.8メートル)もあろうかという化け物の女が恐ろしい姿で立っていました。
化け物の女は、「私は鬼のような形をしていますが、ずっと前、この池の人柱になったものです。
5百年ほど前からここに住んでいた蛇でしたが、ある日、ここを通りかかると大勢の村人が集まっていたので、
なんだろう?と思って美しい女に姿をかえその場に行くと、思いがけず切り伏せられて堤の人柱にされてしまったのです。
その時の腹立ちはとても言い表せぬほどでしたが、だんだんと月日がたち、池ができあがって、
村人が喜んで幸せになった様子をみて、今は怒りをおさめました。
けれども、だれも私のことを覚えていないのが寂しいから、あなたは里に帰り、
この池の水の流れる川の畔に私の菩提を弔いなさい」と言ったのです。
村人達は化け物の女の気持ちがよくわかりましたので、それから言葉通り、お寺を建ててまつりました。
それが川上真楽寺(しんぎょうじ)といいます。
以来、化け物の女は二度と現れることもなく村人はみな幸せに暮らしました。
今の北山西端、菊徳の曇川の岸近くにたてられている薬師堂のことです。
入ヶ池(所在地 兵庫県加古郡稲美町北山1243)
【特徴】
現在の入ヶ池は、総貯水量27万9千トン、満水面積14.5ヘクタールとなっており、兵庫県で第5位の面積を誇っています。
池にはカワセミが生息しており、池の北西側には記念碑や霊社が残っています。
参考 稲美町・入ヶ池郷土地改良区
「分切石」ぶんきりいし
昭和53年2月、この池の改修の際、南堤中樋の付近より発見された敷石のことである。
分切石に刻まれた文字は 「享保七寅年 御願申 忌 之 分 切」とある。
これは、「御願い申す。これを忌みたまえ 分切」と読むのかと思われる。
分切石が押し流されぬよう水神に至祈る意見で書かれたのであろうと言われる。
分切石 |
「頌徳記」しょうとくき
昭和52年から54年にかけて「ため池等整備事業」により大改修が行われた。
それを記念して大記念碑が建てられ、又、これを機に築造以来の多くの先人たちの遺徳を偲ぶために、碑の傍らに祠をつくり、頌徳記が建てられた。
祠と鳥居 | 頌徳記石碑 |
【入ヶ池の水争い】
明治28年6月大雨の際に生じた国岡新村 対 入ヶ池郷の北山村、中村の争いである。
寛文2年(1662年)に開発された国岡新村はその開発と共に千波池を造り、加古新村と共同で大溝を築き、
草谷川より引水してその三部を北山村所有の入ヶ池に入れ、それを千波池へと流下させていた。
ところが、この千波池はさらに下流の琴池の流先ともなっていたため、集水はなかなか難しく、 明治28年6月大雨による出水の時、国岡新村の村民が暴力をもって入ヶ池越水堤防を決壊せしめた事件があり、 国岡新村対入ヶ池掛かりの北山村、中村の村民が互いに鍬などの農具を用いて夜も雨戸をとじ、あるいは釣鐘をたたいて集まり、 まさに流血の惨事に至らんとする大事件となった。
幸い当時の近隣有力者4名、岡村の金沢俊良・加古新村の竹本肇・蛸草新村の岩本須三郎・野寺村の魚住逸治等が仲裁に入り、 大事に至ることなく、国岡新村側において損害堤防を修理し、越水を復旧させ、入ヶ池側も越水以上の水は速やかに千波池へ 放下することを約束して円満和解が成立し、明治28年7月19日に事件の解決となった。 参考 稲美町史
【入ヶ池の草花】
オニバス(鬼蓮)・・・・スイレン科オニバス属 日本・近畿・兵庫の絶滅危惧種
花期:8月~10月 一年草
名前の由来:植物全体に大きなトゲがあり、固く鋭いため。
ナンバンギセル・・・・・ハマウツボ科ナンバンギゼル属
花期:秋
一年草(寄生植物)
名前の由来:花の形が南蛮人の持つパイプに似ているため
万葉集にも「おもひぐさ」として詠まれる。
道の辺の 尾花がしたの 思ひ草 今さらさらに 何をか思はむ(作者不詳 巻十一―2270)
稲美町の寺社関連情報
【川上真楽寺(かわかみしんぎょうじ)】 (所在地 兵庫県加古郡稲美町北山652)
薬師堂の石に天平11年と刻まれていることから「川上真楽寺」という名前を賜ったのは聖武天皇の時代であったとされる。
人柱となった霊女「お入さん」を祀る堂であり、薬師如来(行基作)が置かれている。
北山では「入」が人柱とされた5月12日をその命日とし、年1回法要を営んでいる。
また毎月1日、12日、21日の薬師堂でのお祀いが行われる。
【薬師如来(中央)】
薬師如来の台座の裏書きには、次の意味のことが書かれています。
川上真楽寺の薬師如来は聖武天皇の天平11年の行基の作である。
しかし、長い年月の間にご本尊が破壊してしまったので、天平11年から955年にあたる元禄6年にご本尊を再興し、開眼供養を行った。
日光菩薩 | 月光菩薩 |
【行基】 ぎょうき 668年~749年
奈良時代の僧侶。河内国大島郡(現在の大阪府堺市)の生まれ。
681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。
704年に家原寺に住居を構える。民衆を煽動する人物として国家からは弾圧されるが、後には厚遇されて
745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。
三世一身法が施行されると灌漑事業をはじめ、東大寺大仏造立にも関わっている。
天平21年2月2日に80歳で入滅した。 生駒市の竹林寺に墓所がある。
また、朝廷より菩薩の称号が下され、行基菩薩と言われる。
【薬師堂内の境内(120坪)の建造物】
霊女「お入さん」の 言い伝えが書かれている碑 |
建立記念碑 碑には蛇と波がデザインされている |
【後書き】
天満に伝わる民話の冊子を頂いた天満小学校の先生、写真撮影にご協力頂いた母里小学校の先生、 製本づくりにご尽力くださった天満大池の関係機関の皆様、入ヶ池の話をお聞かせくださった小山由和さん、有り難うございました。
編集 大路敬子 大崎かなえ
協力 BOOKフレンド